「白頭学院」は1946年3月に「白頭同志会」の文化事業の 一環として建国工業学校・建国高等女学校が創立されたのが始まりです。
1945年8月15日、第2次世界大戦が終わった当時日本には200万人もの朝鮮人の同胞たちが住んでおり、その多くが生活苦から日本に渡ってきた人々、徴用によって強制労働に従事していた人々であった。それゆえ、8月15日の解放は喜びに包まれ、熱狂的な万歳の声とともに、同胞たちの祝賀と行列で日本中が沸き返っていた。しかし、一方で韓半島は南北に分断され、日本も国土が荒廃し、国民は虚脱の中での生活をし、社会には秩序がなく、同胞の生活も極度に不安定な状況にあった。そして、同胞社会では子女教育問題が深刻に浮かび上がった。
こうした中、同胞社会の将来を憂慮し、成長する子供たちに真の教育を受けさせようと、創設者の曺圭訓と初代校長の李慶泰が立ち上がった。曺圭 訓は文化事業団体として「白頭同志会」を組織し、知識人である李慶泰を迎え入れた。曺圭訓・李慶泰の両氏の教育観は「人間は社会において公認された資格がなければならず、特に教育の基本は、政治に左右されない不偏不党であり、日本社会はもちろん国際社会にも通用する学校でなければならない」というもので あった。
時は満ち、大阪市住吉区遠里小野の旧日本通信学校が廃校されることを受け、白頭同志会がそれを購入して、ついに1946年3月「白頭同志会」の文化事業の一環として白頭学院が創立・開校することとなった。当初は同胞子弟たちの技術習得を目的とした工業学校と、女生徒の知徳兼備な新しい女性、すなわち家庭にあっては良妻賢母、社会にあっては才媛な女性を目標・教育活動とした高等女学校を設立。学校名には「祖国を建国する」という崇高な願いを込めた「建国」の名を冠し、建国工業学校、建国高等女学校と命名した。
1年後の1947年には学制が6・3・3制になり、これにあわせて、普通中等課程の建国中学校を開設し、建国工業学校、建国高等女学校を併せ、男女共学制として300名が入学した。そして、この生徒たちが3年後には高等学校に入学することをふまえ、1948年3月に高等学校を設置し、ここに建国高等学校が開校する運びとなった。(白頭学院創立60周年記念誌より)
1946年3月 | 建国工業学校・建国高等女学校設立 |
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1947年4月 | 学制改革に伴い、建国中学校設立 |
1948年4月 | 建国高等学校設立 |
1949年4月 | 建国小学校設立 |
1949年5月 | 文部省より財団法人白頭学院認可 |
1951年3月 | 文部省より学校法人白頭学院認可 |
1966年2月 | 京都府亀岡市に林間学舎開設 |
1979年10月 | 本館校舎竣工 |
1986年10月 | 創立40周年記念式典挙行 |
1996年5月 | 創立50周年記念式典挙行 |
1997年4月 | 建国幼稚園開設 |
2006年5月 | 創立60周年記念式典挙行 |
2013年2月 | 新校舎起工式 |